オーロラソング 5 (終)
- 2020/05/08
- 21:11
ページを捲った時にふと、目を落としている本に差し込んでいる茜色の光が目についた。
何気なく視線だけを窓へ向けると、窓から沈み掛けながらも一際に眩い西陽が私の目をすがめさせる。最近は陽も延びてきたから、これでももう結構な時間なんだろう。
「んぅー……んっ」
手元の本を一旦置いて、猫のように丸まっていた上半身を伸ばす。凝り固まっていた背中と首でポキリポキリと音が鳴って、口からは息が漏れ出た。あぁ、やっぱり私はこの瞬間が好きだ。
お腹の空気を全て出すかの様に深く長く息を吐いた私は、折角伸ばした背中を丸めるのも何だか気が進まず、手を翳しつつもう一度西陽を見るでもなく眺めた。その茜色は一日の終わりの物なのに不思議と物寂しさはなくて、朝日を見ているような清々しささえあるように感じた。
果たして清々しいのは夕日なのか、それとも私の心情の方なのか。
ミハルさんとの協力関係が用済みとなってから、既に数日が過ぎていた。最低でも一つの季節、長ければ一年以上はミハルさんに協力する心構えだったので、開始数十分足らずで(当初の達成条件とは異なっているとは言え)目的達成となってしまったのは正直物っっっっ凄い肩透かしを喰らったという感じではあった。
比喩表現元である相撲の肩透かしへ換算したら、土俵に上半身が丸々めり込んで見えなくなるくらいの威力はあったんじゃないだろうか。
でも不思議な事に不満は全く無かった。その理由には、少しとは言え役には立てた自負があったからというのもある。
けれど何よりも、協力関係の最後にミハルさんが私にくれた、まるで今見えている陽のように目映い笑顔が、暖かい言葉が私の中から満足以外の言葉を消し去ってしまったのだ。
「―‐本当にありがとうございました。ミスミさんを頼って、本当に良かった。」
ミハルさんがくれた言葉を確かめるように、大切に口に出してみる。
自分で言っただけなのに、自然と広角が上がってしまう。誰かの役に立つというのは、こんなにも嬉しい事なのか。
顔がだらしなく緩んでいるのはわかったけれど、誰かに見られる心配もない今はこの暖かさに浸っていたかった。けれど玄関の扉が開く音に、私の意識は現実へと引き戻される。続いて聞こえてきたのは、先生の「ただいま」という声。
この屋根裏には扉がなく、その上階段の昇り口は玄関を上がってすぐだ。だから声を潜められない限り大抵の話し声はここから聞くことが出来る。
ほどなくして、跳ねるような足音と一緒にミハルさんの声も聞こえてきた。根回しはもう済んでいるのか、彼女以外の声も足音も聞こえてこない。どうやら、これから『始める』心積もりみたいだ。
ミハルさんに答える先生の声には笑いが混じっていた。けれど、やっぱり聞くからに疲れていて、どんな顔をしているのかも想像がついてしまう。
私は意識を夕陽から階段の下に移して、耳を澄ませた。
下へ聞こえてしまわないように、口の中だけでミハルさんへ応援の言葉を呟く。
「……相棒さんに贈りたいものがあるんでスよ!ある人と一緒に考えたんでス!」
不意にそう言った彼女に、先生が少なからず驚きや戸惑いを含んだ反応をしたのがわかる。
けれどそれが明確な言葉になるよりも早くに、ミハルさんが空気を深く鋭く肺に吸い込んだのもまた、同じようにわかった。
その空気は間も無く彼女の『言葉』と共に吐き出される。
ふやけたタバコ吸いながら死にたい気分だとか電話の向こう
『金無い時間ない休み取れない ここを動けないの』
何を手に入れるかは後でもいいんだ 何を捨てられるかって話
行っちゃうか遠く イエローナイフがどこだか地図で探すSunday
それは歌だった。それも決して上手いとは言えない、時折音が上擦るような拙い歌。
でもそれは歌である前に、ミハルさんの『言葉』だった。
彼女の性格をそのまま音にしたような伸びやかな声は、真っ直ぐな言葉は、跳ねるような旋律に乗って家中に響き渡る。
It's A Aurora Song 死ぬまでに行ってみたいって
It's A Aurora Song 君はいつも言ってたじゃん
死にたい理由を並べるといつの間にか 生きたい理由になってくのは不思議な事じゃない
花束と安いウィスキーの瓶買っていくから 乾杯しよう
おめでとう 出発を今夜決めよう
一生掛けても成し遂げられる気がしないならまだ先はあるよ
君が産まれたあの晴れた 朝を迎えるために
地球は四十六億年掛けて転がり続けてきたのかも
泣いてる君にオーロラを 持って帰る方法を考えるSunday
聞こえてくる歌は、彼女の言葉だ。彼女の感情そのものだ。ミハルさんはある筈のないギターを掻き鳴らして、言葉にすることが出来ない内心渦巻く感情を、一切の曇りも淀みもなくただ一心に叫んでいた。
――――――
――――
――
ミハルさんの歌が終わってからも、私は手元の本を読むでもなく指で弄びながら先生たちの会話に耳を傾けていた。それは別に気になるからとかじゃなくて、ただ--そう、ただ折角伸ばした背中を丸めるのも何だか気が進まなかったから。
「……何故、この歌を私に?」
「私の気持ちを表すのが、この歌だったからでスよ。出来れば自分の言葉で伝えたかったんでスけどね。ある人に『こんな歌詞みたいな事を言えるようになるにはどうしたらいいでスか』って相談したら、そのまま歌うように言われちゃったんでス」
声しか聞こえないのに、ミハルさんがばつの悪そうに笑っているのが伝わってくる。
ミハルさんも先生と同じで、凄くわかりやすいなぁと少し笑ってしまった。
「……ナツメさんの言った通りでした」
「? なんでナツメさんが出てくるんでスか?」
「ああいえ、すみません。こっちの話です。ちなみに誰に相談したんですか?」
「へへぇ、秘密でス」
「秘密ですか」
「はい、相棒さんに言っていいか確認してないからまだ秘密でス。ただーー」
「『ただ』?」
「ただその人は、ワタシが持ってないものを持ってる、とっても頼りになる凄い人でスよ。」
……ミハルさんには、私がそんな風に見えるのか。
私は、わかったような事を言っているだけなのに。
本当は、私なんてちっとも頼りになんてならないのに。
そんな私を――
「見る目無いですよ、まったく」
口の中でだけで、呟く。苦笑が浮かんでいたその頬を、何かが伝い落ちた。
ああ、人のことなんて言えないじゃないか。
私だって相当、わかりやすい。
何気なく視線だけを窓へ向けると、窓から沈み掛けながらも一際に眩い西陽が私の目をすがめさせる。最近は陽も延びてきたから、これでももう結構な時間なんだろう。
「んぅー……んっ」
手元の本を一旦置いて、猫のように丸まっていた上半身を伸ばす。凝り固まっていた背中と首でポキリポキリと音が鳴って、口からは息が漏れ出た。あぁ、やっぱり私はこの瞬間が好きだ。
お腹の空気を全て出すかの様に深く長く息を吐いた私は、折角伸ばした背中を丸めるのも何だか気が進まず、手を翳しつつもう一度西陽を見るでもなく眺めた。その茜色は一日の終わりの物なのに不思議と物寂しさはなくて、朝日を見ているような清々しささえあるように感じた。
果たして清々しいのは夕日なのか、それとも私の心情の方なのか。
ミハルさんとの協力関係が用済みとなってから、既に数日が過ぎていた。最低でも一つの季節、長ければ一年以上はミハルさんに協力する心構えだったので、開始数十分足らずで(当初の達成条件とは異なっているとは言え)目的達成となってしまったのは正直物っっっっ凄い肩透かしを喰らったという感じではあった。
比喩表現元である相撲の肩透かしへ換算したら、土俵に上半身が丸々めり込んで見えなくなるくらいの威力はあったんじゃないだろうか。
でも不思議な事に不満は全く無かった。その理由には、少しとは言え役には立てた自負があったからというのもある。
けれど何よりも、協力関係の最後にミハルさんが私にくれた、まるで今見えている陽のように目映い笑顔が、暖かい言葉が私の中から満足以外の言葉を消し去ってしまったのだ。
「―‐本当にありがとうございました。ミスミさんを頼って、本当に良かった。」
ミハルさんがくれた言葉を確かめるように、大切に口に出してみる。
自分で言っただけなのに、自然と広角が上がってしまう。誰かの役に立つというのは、こんなにも嬉しい事なのか。
顔がだらしなく緩んでいるのはわかったけれど、誰かに見られる心配もない今はこの暖かさに浸っていたかった。けれど玄関の扉が開く音に、私の意識は現実へと引き戻される。続いて聞こえてきたのは、先生の「ただいま」という声。
この屋根裏には扉がなく、その上階段の昇り口は玄関を上がってすぐだ。だから声を潜められない限り大抵の話し声はここから聞くことが出来る。
ほどなくして、跳ねるような足音と一緒にミハルさんの声も聞こえてきた。根回しはもう済んでいるのか、彼女以外の声も足音も聞こえてこない。どうやら、これから『始める』心積もりみたいだ。
ミハルさんに答える先生の声には笑いが混じっていた。けれど、やっぱり聞くからに疲れていて、どんな顔をしているのかも想像がついてしまう。
私は意識を夕陽から階段の下に移して、耳を澄ませた。
下へ聞こえてしまわないように、口の中だけでミハルさんへ応援の言葉を呟く。
「……相棒さんに贈りたいものがあるんでスよ!ある人と一緒に考えたんでス!」
不意にそう言った彼女に、先生が少なからず驚きや戸惑いを含んだ反応をしたのがわかる。
けれどそれが明確な言葉になるよりも早くに、ミハルさんが空気を深く鋭く肺に吸い込んだのもまた、同じようにわかった。
その空気は間も無く彼女の『言葉』と共に吐き出される。
ふやけたタバコ吸いながら死にたい気分だとか電話の向こう
『金無い時間ない休み取れない ここを動けないの』
何を手に入れるかは後でもいいんだ 何を捨てられるかって話
行っちゃうか遠く イエローナイフがどこだか地図で探すSunday
それは歌だった。それも決して上手いとは言えない、時折音が上擦るような拙い歌。
でもそれは歌である前に、ミハルさんの『言葉』だった。
彼女の性格をそのまま音にしたような伸びやかな声は、真っ直ぐな言葉は、跳ねるような旋律に乗って家中に響き渡る。
It's A Aurora Song 死ぬまでに行ってみたいって
It's A Aurora Song 君はいつも言ってたじゃん
死にたい理由を並べるといつの間にか 生きたい理由になってくのは不思議な事じゃない
花束と安いウィスキーの瓶買っていくから 乾杯しよう
おめでとう 出発を今夜決めよう
一生掛けても成し遂げられる気がしないならまだ先はあるよ
君が産まれたあの晴れた 朝を迎えるために
地球は四十六億年掛けて転がり続けてきたのかも
泣いてる君にオーロラを 持って帰る方法を考えるSunday
聞こえてくる歌は、彼女の言葉だ。彼女の感情そのものだ。ミハルさんはある筈のないギターを掻き鳴らして、言葉にすることが出来ない内心渦巻く感情を、一切の曇りも淀みもなくただ一心に叫んでいた。
――――――
――――
――
ミハルさんの歌が終わってからも、私は手元の本を読むでもなく指で弄びながら先生たちの会話に耳を傾けていた。それは別に気になるからとかじゃなくて、ただ--そう、ただ折角伸ばした背中を丸めるのも何だか気が進まなかったから。
「……何故、この歌を私に?」
「私の気持ちを表すのが、この歌だったからでスよ。出来れば自分の言葉で伝えたかったんでスけどね。ある人に『こんな歌詞みたいな事を言えるようになるにはどうしたらいいでスか』って相談したら、そのまま歌うように言われちゃったんでス」
声しか聞こえないのに、ミハルさんがばつの悪そうに笑っているのが伝わってくる。
ミハルさんも先生と同じで、凄くわかりやすいなぁと少し笑ってしまった。
「……ナツメさんの言った通りでした」
「? なんでナツメさんが出てくるんでスか?」
「ああいえ、すみません。こっちの話です。ちなみに誰に相談したんですか?」
「へへぇ、秘密でス」
「秘密ですか」
「はい、相棒さんに言っていいか確認してないからまだ秘密でス。ただーー」
「『ただ』?」
「ただその人は、ワタシが持ってないものを持ってる、とっても頼りになる凄い人でスよ。」
……ミハルさんには、私がそんな風に見えるのか。
私は、わかったような事を言っているだけなのに。
本当は、私なんてちっとも頼りになんてならないのに。
そんな私を――
「見る目無いですよ、まったく」
口の中でだけで、呟く。苦笑が浮かんでいたその頬を、何かが伝い落ちた。
ああ、人のことなんて言えないじゃないか。
私だって相当、わかりやすい。
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