オーロラソング3
- 2020/03/07
- 22:11
私が言葉を返すと、ミハルさんは階段の降り口からひょっこりと顔を出したまま満足げに頷いた。その所作も含めて一つ一つの動きが大きいからなのか、単純に容姿だけで言うならどう間違ってもそうは見えない筈なのに、何故だかミハルさんからはどこと無く子供らしい印象を受けてしまう。でもきっとその印象を決定的にしている要因は、ミハルさんの表情にある気もした。一目見ただけでわかるくらい底抜けに明るくて陰が見えなくて不安なんて無さそうな……そんな、子供くらいにしか出来ないような顔をミハルさんはしているから。
私はここまでを人知れず混乱しそうな頭の中で文章へと起こし、ミハルさんに聞こえてしまわないように気を付けて小さくゆっくりと息を吐く。混乱しそうな思考を、何とかその場に縫い付ける。
今さっき噛んだ瞬間は混乱を極めて口から呻き声でも漏れ出そうな精神状況だったものの、こうして今目に入っているものを一つずつ確認している内に何とか冷静さを取り戻せてきた気がした。
これはつい先日雑談の中で先生が言っていた『混乱しそうになったら一旦考えるのはやめて目の前の状況だけ頭の中で文章にしようとするといいですよ。十の内一理解できればそれで一応混乱は終わります。混乱してる時ってのは考えてるようで実は何も考えられてない状態な訳ですからね。』と言うのを参考にしてみたのだけれどこれは効く。あなたはやっぱり私の先生だ。
何はともあれ、ミハルさんの顔に変なものを見聞きしたような物は差さなかったし変な空気も流れていない。自分では盛大に噛んだ感覚があったものの、客観的に聞けば案外ちゃんと言えていたんだろうか。いやそうだきっとそうに違いない私は噛んでなんかいなかったん
「実はミシュミさんを見込んで頼みがーー」
「ごめんなさい噛みましたミスミです許してください」
変わらず降り口のミハルさんの言葉が言い終わない内にーーそれも『ミシュミさん』と呼ばれた事以外は声だという事しか認識できていない内に、私はほとんど脊髄反射で一息に言いきった。打ち切るように言ってからおよそ数拍の間をたっぷり要した後、ようやく彼女の声が私の頭の中で言葉として意味を紐付ける。けど理解までにはどうしてもいかなかった。
それは途中で言葉を切ってしまったからじゃないし、混乱していたからでもない。
むしろ今聞こえたのは私の聞き間違いなんじゃないかと逆に混乱し始めそうになりかけたものの、ミハルさんの滑舌事態は明瞭だったのでその線は消した。
そうして思考の選択肢を減らすことで、迷走と暴走を始めそうになった頭をすんでの所で落ち着かせた私は、こちらを真っ直ぐに見詰めてくるミハルさんから目を逸らす事さえ出来ないまま意識的に一呼吸を挟む。
見込む? 私を? どこを?というか……いつ?
一呼吸後には言葉を出すつもりだったのに、出るのは声にならない疑問ばかり。口からは息一つ出すことが出来なかったし、ひょっとすると呼吸さえ上手く出来ていないかもしれなかった。
「……とりあえず、上がって、話を聞かせてください」
ようやくその言葉を出せたのは、何呼吸の間を置いた後だっただろうか。上手く呼吸が出来ていたかさえわからない私には、それすらもわからない。
けれどミハルさんは特に焦れた様子を見せる事もなく嬉しそうに頷いた。
そうして屋根裏に招き入れたは良いものの、ミハルさんに座って貰う椅子が無かった。私だけ座っているのは流石に失礼なので慌てて立ち上がる。
……部屋の中で立ち話というのも滑稽な話だけれど。
「まず、一つだけ教えて下さい。私を見込むタイミングがどこにありました?」
「え?」
つっけんどんな言い方になってしまわないよう気を付けながら、声を歯で噛み切るようにして訊ねた私に、ミハルさんはキョトンと首を傾げる。
そんなミハルさんを目の当たりにすると、不思議と混乱が落ち着いていくのを感じた。
純真さの権化とさえ言えるような彼女からは一切の害意を微塵も感じないし、そこから受ける子供らしい印象が『私がリードしなければ』と思わせるのだ。
……あらゆる点でミハルさんは私よりも先輩なのはわかる。それでもそう思わせてしまうんだから、これはミハルさんの人徳というか特性なんだろう。
「その、こう言っては何ですが初対面ですよね。」
つとめてぶっきらぼうになってしまわないよう注意しながらそんな質問を投げると、彼女はこれまでと打って変わって叱られた子供のように表情を沈ませ顔を伏せた。
何だかとてつもなく申し訳ない気持ちになったけれど、どうすればいいかわかる筈もない私はただただミハルさんの言葉を待った。
「ごめんなサい、結構前からミスミさんの事を見てたんっス。」
顔を伏せたままながらも、間違いなくさっきの私よりは早くそんな言葉が帰ってくる。その声にはやっぱり叱られている子供のような沈痛さがあった。
「見てた?」
「はい、見付けてから時々さっきみたいに顔を出して、見てまシた。」
「……ちなみに『結構前』ってどれくらい前からです?」
「一年、半くらいっス。」
頭を抱えたくなった。
ミハルさんに対してではなく、自分に。
……つまり、何か。ミハルさんは約一年前からさっきのようにひょっこり顔を出していたと。
さらに言うなら、私は約一年間さっきのようにひょっこりされていながら気付かなかったと。
アホか?私はアホなのか?
『抱えたくなる』という願望を通り越して身体が無意識の内に頭を抱えようと動いたが、何とか理性を働かせて額を押さえるまでに留めた。
それに何の意味があるかと問われると、頭を抱える事を額を押さえる動作に変えた点でいえば正直何の意味も成していない。しかし、理性を無理矢理にでも働かせて考える事自体には大きな意味がある。
頭の中で言葉を文章としてて構築する事は頭を冷やし、混乱を瀬戸際で食い止める事に繋がる。そしてもしその一線を越えそうになった時は先生の言葉をまた思い出せばいい。たじろぐ必要はない状況は最高だ。
私は額から右手を離し、再度申し訳なさそうに俯いたままのミハルさんに視線を戻す。
完全に冷静かと言われれば流石に肯定出来ないけれど、自分の声色に気を付ける事が出来る程度には私は落ち着いていた。
膝が笑い掛けているけれど思考には支障はない。
「私を見込んだタイミングというのはわかりました。気付かなかった私が悪いのでそこも気にしないで下さい。では、次に『頼みたい事』というのを聞かせて貰えますか」
舌の根も十分に回る。会話の継続も問題ない。大丈夫、私は大丈夫だ。依然として状況は最高だとも。
約一年の間顔を出していただけだったミハルさんがああして声を掛けたという事は、そうしなければならなかった大きな理由がある証拠だ。その理由こそが『頼み』であることは流石に想像はつく。その頼みという事が一体どんな事なのかは全く検討もつかないけども。
そんな不確定な状況にも拘わらず、不思議な事にそれが私に協力出来ることだったならば、そうする事も吝かではないとーーいや、出来れば協力したいとさえ何故だか自然と考えていた。
そ れは『弱いことを言い訳に逃げない』と決めたのとはまた別の何かが要因になっている気がしたが、それが何であるかを考えるまでの余裕も冷静さも今の私はなかった。そうしてすぐに、そんな疑問そのものが頭の隅に追いやられるのを微かに感じたけれど、それすらも次第に端の方へ流れていった。
私の言葉を受けたミハルさんは擬音が付くのではと思うほど勢いで顔を上げた。その顔には先程とは打って変わって『よくぞ訊いてくれました』とばかりの明るい表情があった。
そんな、まるで定規で引いた線のように真っ直ぐな目で私を見据えた後、ミハルさんは上半身がほぼほぼ直角になるくらいに深々と頭を下げた。
「ゴイが欲しいんっス!ワタシにゴイリョクを下サい!」
数瞬、数拍、そして数秒の空白。
深く頭を垂れたままのミハルさんを前にして、私は言い放たれた声に言葉としての意味を脳内で紐付けられても尚、動く事が出来ずにいた。口はもちろん身動ぎすらも出来ず、代わりに本来その為に使われる筈の熱量が丸ごと頭へと来ているような錯覚を覚えた。
そんな頭には濁流のような文字が思考の奔流と化していた。次々に流れる文字が言葉になり、その言葉が推論を成してそこからさらに仮定論からの推論が開始され思考は加速の一途を辿る。
とはいえ必要以上の熱量を半ば強制的に送り込まれた脳が行っているのは思考と言う名の暴走だった。端的に言うと、以前先 生が言っていた『考えているつもりで何も考えられていない』という混乱状態の典型だった。
一旦、頭の中で氾濫している一切の思考を放棄した。
考える事は絶対にせず、しそうになったら自分を締め上げる位の覚悟と意気込みでただただ現状を文字にする。眼前にある光景を単語にして、それを言葉として書き起こし、その比較的整然とした文字の連なりだけを頭の中へ浮かべる。
その作業をする事で、ミハルさんについてわかった事が一つある。
私はてっきり、ミハルさんが意図的に語尾を『~っス』と発音しているものだとばかり思っていた。けれど、よくよく注意して聴いてみるとミハルさんの『っ』は物凄く微かな、それこそ誇張抜きで蚊の鳴くような『で』なのである。
とは言え私がこうして聞き取れた訳だから、ある程度話せば大概の人は気付ける事なんだろうけれど。
何と言うか、ミハルさんと初めて話したばかり時は『っス』と聞こえて、話し慣れてミハルさんの人柄が何と無くでも掴めてくると『です』と聞き取れるような、そんな感じだ。
多分きっと、ミハルさんとしては普通に敬語で話しているつもりなんだと思う。にもかかわらず『っス』と聞こえてしまうのは敬語が苦手なのか、若しくは局所的に著しく舌足らずなのか。
「……『ゴイ』というのは、言葉の語彙ですか?」
一応頭の平静を取り戻した私は、そんな確認の言葉を頭を下げたままのミハルさんに言った。
言ってから、何よりも先にミハルさんに顔を上げて貰う旨を言うのが最初だったと後悔したけれど、私が後悔するよりも先にミハルさんは顔を上げてキョトンと首を傾げていた。
「それ以外のゴイリョクってあるんでスか?」
……その通りだ。言っておいて何だけど、自分でも他に何があるというんだろうと思う。
ただ、別であって欲しかったから思わずその可能性に縋ってしまったのだ。
「すみません。私は力になれそうにありません。」
「そうでスか……」
「すみません。私に教えられる程の語彙があるとは思えませんし、仮にあったとしても教え方がわからないんです。だから、本当にごめんなさい。」
基本的に私は本を読んでいる事が多い。いやむしろ一人の時には本を読んでいる事しかしていないと言ってしまってもいい。
そしてミハルさんはそんな私を見ていた事になる。だからきっと、ミハルさんから見た私はさぞ語彙力のある人間に思えるのだろう。
だが実際は本をいくら読んだところで語彙力に自信などは全くない。それは上質な料理を食し続け『この「あらい」を作ったのは誰だぁっ!』『貴様はクビだ!』などと居丈高と振る舞う美食家が全く料理は出来ないのと似ている。
私に出来ることなら、協力したいとさえ思っていたのは本心だ。けれどそんな事を口に出す気には到底なれない
何を言っても、きっと言い訳にしか聞こえないだろう。罪悪感を誤魔化すために白々しい事をほざいているとは思われたくなかった。
だから、心苦しさを感じつつも濁すような言葉を一切入れず正直に言った。
けれどミハルさんは頷かずに眉値を寄せた。それは不満から来ているようなものじゃなくて、難しい問題を出された子供のような感じだった。そのまま一回首を捻ってから、また私をじっと見据えた。
その真っ直ぐ過ぎる瞳で見据えられると、何だか心の奥底まで見られているような錯覚を覚えてしまう。
こういう時深淵は見ず知らずの奴でも逆に覗き返すというけれど、何てヤツなんだと心底思う。私が深淵だったらたぶん目を泳がせながら半笑いで会釈しただけで終わる。
「ワタシは難しい話はあんまり得意じゃないです。だから言いにくいのはわかりまスけど、ワタシに教えるのが嫌か、そうじゃないかで言って下サい。お願いしまス」
「嫌な訳ではないです。ですが嫌かどうか以前の問題で私には教えるだけのーー」
「だったら教えて下サい!」
「……いや、話を聞いてましたか」
「勿論聞いてましタ、教えるのがメンドーとかそういう理由だったら私は回れ右しまス。でも、そういう理由だったら話は違いまス。ミスミさんは出来ないと思い込んでるだけっス。ミスミさんには絶対それだけの力がありまス」
私の何がわかるんですかと言うところなんだろうけれど、ミハルさんがあまりに真っ直ぐな視線を向けてくるものだからそれを口に出す事が出来なかった。それどころか、何故だかその真っ直ぐ過ぎる瞳から目を逸らす事さえも出来なかった。
「どうしてそう思うんですか」
戸惑いつつも、率直な疑問を投げる。
『教える事が面倒だからです』と一言言ってしまえば、それで全て済んでしまう事はわかっている。けれど、それを言えない自分にやはり戸惑っていた。
「直感でス。ワタシは考える事が苦手でス。だからワタシはミスミさんを一年半覗き続けたワタシの直感を信じまスし、その直感で見込んだミスミさんを本気で信じていまス。」
……この人は、後悔なんてしないんだろうな。何となく私はそんな事を思ってしまった。
どんな事があっても、それこそ自身の選択で失敗しても前を見続ける事が出来るようなーー先生とはまた違う強さを持っていて、そしてそれはきっと私がどう足掻いても持つことは出来ない。
この人の強さは、私には眩しすぎた。
「……ブルース・リーみたいな事を言いますね」
それとなくを装って、ミハルさんから目を逸らす。そうして逃げるように……いや、ミハルさん強さから逃げる為に適当な言葉を放って、彼女の真っ直ぐ過ぎる瞳から目を背けた。
言ってしまってからブルース・リーとは少し違う気がしたものの、訂正する間も無くミハルさんが首を傾げていた。
「ブルー・スリー?」
名前の切り方に明らかな違和感があったので全く知らない事は伺える。けれど、訊かれてしまった以上話を切るのも感じが悪い気がした。
「『考えるな、感じろ』。聞いたことありませんか?」
「ないでス。」
首を傾げる事もなく、即答するミハルさん。多分『いきなりコイツは何を言い出しているんだろう』と思われているに違いない
少し焦っていたとはいえ大して詳しい訳でも、増してや好きでもないブルース・リーなんかの名前を考え無しに出した自分を呪った。
自分は一体どうしたいというんだろう。嫌なら断ればいいし、あそこまで言ってくれているのだから受けたいなら受ければいい。
それだけの事なのに結論が出せない。
先生のおかげで、もう逃げないとは決められたのはいいが、今度は進むことも下がることも出来なくなってしまっていた。自分で自分に嫌気が差す。
変な方向に話を逸らしてしまい途方にくれる私を見かねたのか、もう一度首を捻ったからミハルさんは言葉を次いだ。
「それに、『考えるな』っていうのはちょっと違いまス。ワタシは『感じて、考える』んでス。感じた事が正しいのかどうかを、頭の中で一生懸命考えるんっス」
彼女から目を背けても、疑問は浮かんだ。
「考えるのは苦手でじゃなかったんですか」
ともすると自分に大しての呪詛の言葉や嫌気が浮かんできそうなため、何も頭に浮かべず、可能な限り頭を介さずに感じた事をそのまま言葉に出す。
私はミハルさんからの視線から目を逸らしたままだったけれど、視界の端に見える彼女は変わらず真っ直ぐ私に向いていた。
「苦手でスよ?けど苦手でも、自分に出来る事は全部しないと心配だし不安なんでス」
「……心配? 不安?」
思わず訝しさを隠すこともしないまま、意図的に目を逸らしていた事すらも忘れて、私はミハルさんの方を見てしまった
私が眩しいとさえ感じたミハルさんからそんな単語が出るのは、それくらい意外だったのだ。
けれど、次にミハルさんの口から出たのは、それ以上に意外な言葉だった。
「だって自分に出来る事を全部やらないままで悪い結果になったら、絶対後悔するじゃないでスか。ワタシ多分、後悔なんかしたら一生忘れられないっスから。」
自分の目が、意識を介さずに見開かれるのがわかった。
「後悔したくないから、私は苦手でも一生懸命考えまス。失敗しても、一生懸命考えて正しいと思えた事の結果なら、受け入れられると思うんでス。」
いつの間にか息をする事すら、忘れていた。
「……今までに、後悔した事はありますか」
「無いでスよ」
考えようによっては、後悔するような場面が一つもなかったから後悔がないとも取れる言葉。実際、十数分前に聞いていたら私はそう感じていただろう。
それでも、今のミハルさんの言葉を聞いた私には到底そうは思えなかった。
そうか、この人もーー同じなのか。
「どうして、語彙力が必要なんです?何か必要な理由があるんですよね。」
「え、教えてくれるんでスか!?」
私はミハルさんに頼られて、自分に出来る事ならば協力したいと本心から感じた。
「……考えます。貴女が下に降りるまでには、決めますから。」
だから少し考えてみようと思う。私の感じた事が、正しい事なのかどうかを。
私はここまでを人知れず混乱しそうな頭の中で文章へと起こし、ミハルさんに聞こえてしまわないように気を付けて小さくゆっくりと息を吐く。混乱しそうな思考を、何とかその場に縫い付ける。
今さっき噛んだ瞬間は混乱を極めて口から呻き声でも漏れ出そうな精神状況だったものの、こうして今目に入っているものを一つずつ確認している内に何とか冷静さを取り戻せてきた気がした。
これはつい先日雑談の中で先生が言っていた『混乱しそうになったら一旦考えるのはやめて目の前の状況だけ頭の中で文章にしようとするといいですよ。十の内一理解できればそれで一応混乱は終わります。混乱してる時ってのは考えてるようで実は何も考えられてない状態な訳ですからね。』と言うのを参考にしてみたのだけれどこれは効く。あなたはやっぱり私の先生だ。
何はともあれ、ミハルさんの顔に変なものを見聞きしたような物は差さなかったし変な空気も流れていない。自分では盛大に噛んだ感覚があったものの、客観的に聞けば案外ちゃんと言えていたんだろうか。いやそうだきっとそうに違いない私は噛んでなんかいなかったん
「実はミシュミさんを見込んで頼みがーー」
「ごめんなさい噛みましたミスミです許してください」
変わらず降り口のミハルさんの言葉が言い終わない内にーーそれも『ミシュミさん』と呼ばれた事以外は声だという事しか認識できていない内に、私はほとんど脊髄反射で一息に言いきった。打ち切るように言ってからおよそ数拍の間をたっぷり要した後、ようやく彼女の声が私の頭の中で言葉として意味を紐付ける。けど理解までにはどうしてもいかなかった。
それは途中で言葉を切ってしまったからじゃないし、混乱していたからでもない。
むしろ今聞こえたのは私の聞き間違いなんじゃないかと逆に混乱し始めそうになりかけたものの、ミハルさんの滑舌事態は明瞭だったのでその線は消した。
そうして思考の選択肢を減らすことで、迷走と暴走を始めそうになった頭をすんでの所で落ち着かせた私は、こちらを真っ直ぐに見詰めてくるミハルさんから目を逸らす事さえ出来ないまま意識的に一呼吸を挟む。
見込む? 私を? どこを?というか……いつ?
一呼吸後には言葉を出すつもりだったのに、出るのは声にならない疑問ばかり。口からは息一つ出すことが出来なかったし、ひょっとすると呼吸さえ上手く出来ていないかもしれなかった。
「……とりあえず、上がって、話を聞かせてください」
ようやくその言葉を出せたのは、何呼吸の間を置いた後だっただろうか。上手く呼吸が出来ていたかさえわからない私には、それすらもわからない。
けれどミハルさんは特に焦れた様子を見せる事もなく嬉しそうに頷いた。
そうして屋根裏に招き入れたは良いものの、ミハルさんに座って貰う椅子が無かった。私だけ座っているのは流石に失礼なので慌てて立ち上がる。
……部屋の中で立ち話というのも滑稽な話だけれど。
「まず、一つだけ教えて下さい。私を見込むタイミングがどこにありました?」
「え?」
つっけんどんな言い方になってしまわないよう気を付けながら、声を歯で噛み切るようにして訊ねた私に、ミハルさんはキョトンと首を傾げる。
そんなミハルさんを目の当たりにすると、不思議と混乱が落ち着いていくのを感じた。
純真さの権化とさえ言えるような彼女からは一切の害意を微塵も感じないし、そこから受ける子供らしい印象が『私がリードしなければ』と思わせるのだ。
……あらゆる点でミハルさんは私よりも先輩なのはわかる。それでもそう思わせてしまうんだから、これはミハルさんの人徳というか特性なんだろう。
「その、こう言っては何ですが初対面ですよね。」
つとめてぶっきらぼうになってしまわないよう注意しながらそんな質問を投げると、彼女はこれまでと打って変わって叱られた子供のように表情を沈ませ顔を伏せた。
何だかとてつもなく申し訳ない気持ちになったけれど、どうすればいいかわかる筈もない私はただただミハルさんの言葉を待った。
「ごめんなサい、結構前からミスミさんの事を見てたんっス。」
顔を伏せたままながらも、間違いなくさっきの私よりは早くそんな言葉が帰ってくる。その声にはやっぱり叱られている子供のような沈痛さがあった。
「見てた?」
「はい、見付けてから時々さっきみたいに顔を出して、見てまシた。」
「……ちなみに『結構前』ってどれくらい前からです?」
「一年、半くらいっス。」
頭を抱えたくなった。
ミハルさんに対してではなく、自分に。
……つまり、何か。ミハルさんは約一年前からさっきのようにひょっこり顔を出していたと。
さらに言うなら、私は約一年間さっきのようにひょっこりされていながら気付かなかったと。
アホか?私はアホなのか?
『抱えたくなる』という願望を通り越して身体が無意識の内に頭を抱えようと動いたが、何とか理性を働かせて額を押さえるまでに留めた。
それに何の意味があるかと問われると、頭を抱える事を額を押さえる動作に変えた点でいえば正直何の意味も成していない。しかし、理性を無理矢理にでも働かせて考える事自体には大きな意味がある。
頭の中で言葉を文章としてて構築する事は頭を冷やし、混乱を瀬戸際で食い止める事に繋がる。そしてもしその一線を越えそうになった時は先生の言葉をまた思い出せばいい。たじろぐ必要はない状況は最高だ。
私は額から右手を離し、再度申し訳なさそうに俯いたままのミハルさんに視線を戻す。
完全に冷静かと言われれば流石に肯定出来ないけれど、自分の声色に気を付ける事が出来る程度には私は落ち着いていた。
膝が笑い掛けているけれど思考には支障はない。
「私を見込んだタイミングというのはわかりました。気付かなかった私が悪いのでそこも気にしないで下さい。では、次に『頼みたい事』というのを聞かせて貰えますか」
舌の根も十分に回る。会話の継続も問題ない。大丈夫、私は大丈夫だ。依然として状況は最高だとも。
約一年の間顔を出していただけだったミハルさんがああして声を掛けたという事は、そうしなければならなかった大きな理由がある証拠だ。その理由こそが『頼み』であることは流石に想像はつく。その頼みという事が一体どんな事なのかは全く検討もつかないけども。
そんな不確定な状況にも拘わらず、不思議な事にそれが私に協力出来ることだったならば、そうする事も吝かではないとーーいや、出来れば協力したいとさえ何故だか自然と考えていた。
そ れは『弱いことを言い訳に逃げない』と決めたのとはまた別の何かが要因になっている気がしたが、それが何であるかを考えるまでの余裕も冷静さも今の私はなかった。そうしてすぐに、そんな疑問そのものが頭の隅に追いやられるのを微かに感じたけれど、それすらも次第に端の方へ流れていった。
私の言葉を受けたミハルさんは擬音が付くのではと思うほど勢いで顔を上げた。その顔には先程とは打って変わって『よくぞ訊いてくれました』とばかりの明るい表情があった。
そんな、まるで定規で引いた線のように真っ直ぐな目で私を見据えた後、ミハルさんは上半身がほぼほぼ直角になるくらいに深々と頭を下げた。
「ゴイが欲しいんっス!ワタシにゴイリョクを下サい!」
数瞬、数拍、そして数秒の空白。
深く頭を垂れたままのミハルさんを前にして、私は言い放たれた声に言葉としての意味を脳内で紐付けられても尚、動く事が出来ずにいた。口はもちろん身動ぎすらも出来ず、代わりに本来その為に使われる筈の熱量が丸ごと頭へと来ているような錯覚を覚えた。
そんな頭には濁流のような文字が思考の奔流と化していた。次々に流れる文字が言葉になり、その言葉が推論を成してそこからさらに仮定論からの推論が開始され思考は加速の一途を辿る。
とはいえ必要以上の熱量を半ば強制的に送り込まれた脳が行っているのは思考と言う名の暴走だった。端的に言うと、以前先 生が言っていた『考えているつもりで何も考えられていない』という混乱状態の典型だった。
一旦、頭の中で氾濫している一切の思考を放棄した。
考える事は絶対にせず、しそうになったら自分を締め上げる位の覚悟と意気込みでただただ現状を文字にする。眼前にある光景を単語にして、それを言葉として書き起こし、その比較的整然とした文字の連なりだけを頭の中へ浮かべる。
その作業をする事で、ミハルさんについてわかった事が一つある。
私はてっきり、ミハルさんが意図的に語尾を『~っス』と発音しているものだとばかり思っていた。けれど、よくよく注意して聴いてみるとミハルさんの『っ』は物凄く微かな、それこそ誇張抜きで蚊の鳴くような『で』なのである。
とは言え私がこうして聞き取れた訳だから、ある程度話せば大概の人は気付ける事なんだろうけれど。
何と言うか、ミハルさんと初めて話したばかり時は『っス』と聞こえて、話し慣れてミハルさんの人柄が何と無くでも掴めてくると『です』と聞き取れるような、そんな感じだ。
多分きっと、ミハルさんとしては普通に敬語で話しているつもりなんだと思う。にもかかわらず『っス』と聞こえてしまうのは敬語が苦手なのか、若しくは局所的に著しく舌足らずなのか。
「……『ゴイ』というのは、言葉の語彙ですか?」
一応頭の平静を取り戻した私は、そんな確認の言葉を頭を下げたままのミハルさんに言った。
言ってから、何よりも先にミハルさんに顔を上げて貰う旨を言うのが最初だったと後悔したけれど、私が後悔するよりも先にミハルさんは顔を上げてキョトンと首を傾げていた。
「それ以外のゴイリョクってあるんでスか?」
……その通りだ。言っておいて何だけど、自分でも他に何があるというんだろうと思う。
ただ、別であって欲しかったから思わずその可能性に縋ってしまったのだ。
「すみません。私は力になれそうにありません。」
「そうでスか……」
「すみません。私に教えられる程の語彙があるとは思えませんし、仮にあったとしても教え方がわからないんです。だから、本当にごめんなさい。」
基本的に私は本を読んでいる事が多い。いやむしろ一人の時には本を読んでいる事しかしていないと言ってしまってもいい。
そしてミハルさんはそんな私を見ていた事になる。だからきっと、ミハルさんから見た私はさぞ語彙力のある人間に思えるのだろう。
だが実際は本をいくら読んだところで語彙力に自信などは全くない。それは上質な料理を食し続け『この「あらい」を作ったのは誰だぁっ!』『貴様はクビだ!』などと居丈高と振る舞う美食家が全く料理は出来ないのと似ている。
私に出来ることなら、協力したいとさえ思っていたのは本心だ。けれどそんな事を口に出す気には到底なれない
何を言っても、きっと言い訳にしか聞こえないだろう。罪悪感を誤魔化すために白々しい事をほざいているとは思われたくなかった。
だから、心苦しさを感じつつも濁すような言葉を一切入れず正直に言った。
けれどミハルさんは頷かずに眉値を寄せた。それは不満から来ているようなものじゃなくて、難しい問題を出された子供のような感じだった。そのまま一回首を捻ってから、また私をじっと見据えた。
その真っ直ぐ過ぎる瞳で見据えられると、何だか心の奥底まで見られているような錯覚を覚えてしまう。
こういう時深淵は見ず知らずの奴でも逆に覗き返すというけれど、何てヤツなんだと心底思う。私が深淵だったらたぶん目を泳がせながら半笑いで会釈しただけで終わる。
「ワタシは難しい話はあんまり得意じゃないです。だから言いにくいのはわかりまスけど、ワタシに教えるのが嫌か、そうじゃないかで言って下サい。お願いしまス」
「嫌な訳ではないです。ですが嫌かどうか以前の問題で私には教えるだけのーー」
「だったら教えて下サい!」
「……いや、話を聞いてましたか」
「勿論聞いてましタ、教えるのがメンドーとかそういう理由だったら私は回れ右しまス。でも、そういう理由だったら話は違いまス。ミスミさんは出来ないと思い込んでるだけっス。ミスミさんには絶対それだけの力がありまス」
私の何がわかるんですかと言うところなんだろうけれど、ミハルさんがあまりに真っ直ぐな視線を向けてくるものだからそれを口に出す事が出来なかった。それどころか、何故だかその真っ直ぐ過ぎる瞳から目を逸らす事さえも出来なかった。
「どうしてそう思うんですか」
戸惑いつつも、率直な疑問を投げる。
『教える事が面倒だからです』と一言言ってしまえば、それで全て済んでしまう事はわかっている。けれど、それを言えない自分にやはり戸惑っていた。
「直感でス。ワタシは考える事が苦手でス。だからワタシはミスミさんを一年半覗き続けたワタシの直感を信じまスし、その直感で見込んだミスミさんを本気で信じていまス。」
……この人は、後悔なんてしないんだろうな。何となく私はそんな事を思ってしまった。
どんな事があっても、それこそ自身の選択で失敗しても前を見続ける事が出来るようなーー先生とはまた違う強さを持っていて、そしてそれはきっと私がどう足掻いても持つことは出来ない。
この人の強さは、私には眩しすぎた。
「……ブルース・リーみたいな事を言いますね」
それとなくを装って、ミハルさんから目を逸らす。そうして逃げるように……いや、ミハルさん強さから逃げる為に適当な言葉を放って、彼女の真っ直ぐ過ぎる瞳から目を背けた。
言ってしまってからブルース・リーとは少し違う気がしたものの、訂正する間も無くミハルさんが首を傾げていた。
「ブルー・スリー?」
名前の切り方に明らかな違和感があったので全く知らない事は伺える。けれど、訊かれてしまった以上話を切るのも感じが悪い気がした。
「『考えるな、感じろ』。聞いたことありませんか?」
「ないでス。」
首を傾げる事もなく、即答するミハルさん。多分『いきなりコイツは何を言い出しているんだろう』と思われているに違いない
少し焦っていたとはいえ大して詳しい訳でも、増してや好きでもないブルース・リーなんかの名前を考え無しに出した自分を呪った。
自分は一体どうしたいというんだろう。嫌なら断ればいいし、あそこまで言ってくれているのだから受けたいなら受ければいい。
それだけの事なのに結論が出せない。
先生のおかげで、もう逃げないとは決められたのはいいが、今度は進むことも下がることも出来なくなってしまっていた。自分で自分に嫌気が差す。
変な方向に話を逸らしてしまい途方にくれる私を見かねたのか、もう一度首を捻ったからミハルさんは言葉を次いだ。
「それに、『考えるな』っていうのはちょっと違いまス。ワタシは『感じて、考える』んでス。感じた事が正しいのかどうかを、頭の中で一生懸命考えるんっス」
彼女から目を背けても、疑問は浮かんだ。
「考えるのは苦手でじゃなかったんですか」
ともすると自分に大しての呪詛の言葉や嫌気が浮かんできそうなため、何も頭に浮かべず、可能な限り頭を介さずに感じた事をそのまま言葉に出す。
私はミハルさんからの視線から目を逸らしたままだったけれど、視界の端に見える彼女は変わらず真っ直ぐ私に向いていた。
「苦手でスよ?けど苦手でも、自分に出来る事は全部しないと心配だし不安なんでス」
「……心配? 不安?」
思わず訝しさを隠すこともしないまま、意図的に目を逸らしていた事すらも忘れて、私はミハルさんの方を見てしまった
私が眩しいとさえ感じたミハルさんからそんな単語が出るのは、それくらい意外だったのだ。
けれど、次にミハルさんの口から出たのは、それ以上に意外な言葉だった。
「だって自分に出来る事を全部やらないままで悪い結果になったら、絶対後悔するじゃないでスか。ワタシ多分、後悔なんかしたら一生忘れられないっスから。」
自分の目が、意識を介さずに見開かれるのがわかった。
「後悔したくないから、私は苦手でも一生懸命考えまス。失敗しても、一生懸命考えて正しいと思えた事の結果なら、受け入れられると思うんでス。」
いつの間にか息をする事すら、忘れていた。
「……今までに、後悔した事はありますか」
「無いでスよ」
考えようによっては、後悔するような場面が一つもなかったから後悔がないとも取れる言葉。実際、十数分前に聞いていたら私はそう感じていただろう。
それでも、今のミハルさんの言葉を聞いた私には到底そうは思えなかった。
そうか、この人もーー同じなのか。
「どうして、語彙力が必要なんです?何か必要な理由があるんですよね。」
「え、教えてくれるんでスか!?」
私はミハルさんに頼られて、自分に出来る事ならば協力したいと本心から感じた。
「……考えます。貴女が下に降りるまでには、決めますから。」
だから少し考えてみようと思う。私の感じた事が、正しい事なのかどうかを。
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